昭和50年07月13日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」

 御神徳を受けると言う事は信心すれば誰でも受ける事が出来る。しかもそれは無尽蔵です。限りなく頂けていける。勿論だから神徳を積むと言う事は限りなく積んでいくと言う事にならなければいけない。信心すれば誰でも受ける事が出来る。だから信心するというのはここではただ、長年お参りをしております、拝んでおりますと言う事ではないと思う。その証拠に例えば沢山な金光様の御信者はおられます。
 けれどもあんなに熱心に、信心しておってもしておる人でも、あれが御神徳だろうなあと云う様な、おかげを受けていない人が、先ずは殆どであると言う事実からみてもです、信心と言う事が教祖が仰る信心とは、かけ離れておる。ただ拝みよりなさる、ただ参りよりなさるというだけのものであって、信心では無いと言う事。信心。だから教祖様が嘘を仰っておるとは思われませんから、頂きもせんものを頂けれると仰る筈はない。そこで私共が研究しなければならない事は、お言葉の一つ一つであります。
 果たしてあの世にまで持っていかれるち、ほんなこっちゃろうか。この世にも残しておけれるなんてんと例えばね、思う人もあるかも知れませんけれども。本当に御神徳というものが、確かに残るものだなあ、また持ってもいけれるものだなあと言う事が、分かって来るとそこの所を愈々焦点に、いわゆる信心をさせて頂かなければならないなあ、目先目先のただ、おかげに終始しておってはいけないなあと言う事が分かります。そこで信心とは信ずる心です。信ずればなりであります。
 信じておるからこそ、よし人から笑われても続けるのである。信じておるからこそ、例え損になった事であってもお礼を申し上げるのである。信ずれば成りであります。そういう信心が愈々身に付いて行かなければなりません。教祖様がもう例えようの無い程の御神徳に進まれた。天地金乃神と同根とまで言われ称えられる程しの御神徳を身に受けられた。その教祖様の御神徳を受けられた元というのは、いつでもどの様な場合でも、信ずれば成りであったという事であります。
 金神様をある人は悪神邪神のように言うたり思うたり、まあ恐れおののいておった、金神様に対してですらも知って向かえば命を取る。知らずに向こうて(?)とるという程しのあらたかな力、働きを持って御座るという事を信じておられた。だからこそその悪神邪神というような神様世間ではいう金神様に対してでもです、実意の限りを尽くされた。そういう働きをもって御座る神様なればこそ、また命を下さる事も(?)を下さる事の出来る、神様に違いはないと確信された。
 そこに七墓築く様な難儀が次々と起きて来たけれども、それは貴方のせいじゃない。私共氏子のせいであって、私の実意が欠けておるから、真が欠けておるからであって、人間凡夫でありあい分からず、そこの所を平に平にお許し下され、とお詫びの姿勢をとられて、悪神邪神と言われる金神様に向かって、一生懸命進まれた。私はお徳を受けると言う事はそう言う事だと思います。
 だから先ずはね、信ずれば成りであります。そこでならここで皆さんがお参りをなさってです、私の言うておる事行うておる事、私がおかげを受けておる事実を目の当たりに見てです、成程ああいうおかげが受けられるんだ、成る程毎日のあのご理解というものは、とても人間の知恵で頂けれれるものじゃないのだ。もうあれこそ神様のお言葉だとまあ信じる所からあれが、是は合楽に限らんのですけれども、御教えの素晴らしさが発揮出来るのはそこからだと思います。 
 先生あげな事ば言いよんなさったばってんからち言うたらそれきりです。先生がああ言うて下さったからというのである。それは私は冗談で言うた事でも、親先生が言うて下さったからだと、それを信じて行く所に事実おかげが現れておるです。ね。信ずれば成りであります。もうそれこそまあ理不尽といや理不尽、神様のお指図が始められる様になる。あちらこちらとその為のご修行に取り組まれる。さあ今日は親戚の誰ぞれが亡くなったぞ、近所隣連れのい誘いおうてお悔やみに行けと言うお知らせを下さる。
 それで教祖様はびっくりなさったでしょうね。はあ誰々さんがなくなったと。それで親戚やら近い方たちを誘うて、お悔やみに行かれると当のご本人が、いや今日は皆さんお揃いで何事ですか、と言った様な事である。神様は嘘ばっかり言うてと仰っていないです。自分の頂き違いとしてお詫びをしておられる。そうしてそこに神様はまた、それに重ねて仰っておられる。戻しの風は十層倍と言うて帰れと仰る。
 お前がいうならいうなら神様嘘を仰ったと、大概のものなら言う所であろうけれども、私の頂き違いとして恥ずかしかった事も間違っておった事も言わずにただ、私の頂き違いとしてお詫びをされる教祖様に、もうほとほとと感心された。そういう中からです戻しの風は十層倍。戻しの風は十層倍というて帰れ、と仰る様な言わばそう云う様な時に、愈々御神徳を受けておいでになられたと言う事になるのです。
 今日は金を拾わせるから、どこどこまでお弁当を作ってそして、いけと言われる。お弁当を作ってそれこそ玉島のあたりまで下られた。丁度お昼になったから神様にお伺いをすると、お昼をつかえと仰る。お弁当を頂いてそこでお礼を申されると、さあ是から帰れと云う事であった。そりゃやっぱり道をこうやって探しておい出られたでしょうね。金を拾わすと仰るのだから。
 所がそれこそ一銭の金も落ちてはいなかった。ただお弁当を遣うてさあ是からまた帰れと仰るからお広前に着かれると、神様にお礼を申される。ただ今帰りました今日は結構なおかげを頂いて有り難う御座います。今日はいくらのもお金を拾うたかと。神様もうそれこそお金は拾いませんでしたけれども、それこそお金以上の命を拾わせて頂きましたと仰っておられる。ね。
 日頃座りに座っておられますから、やっぱり。血の巡りも悪うなります。おかげで今日は久しぶりに歩かせて頂いて、血のめぐりをさせて頂きました、又とない命を拾わせて頂きましたとお礼を言うておられる。もうお前ばかりは試しようがないと仰っておられる。そういうそのお前ばかりは試しようがないと、神様から言われる程しの時に、もうそれこそぐいぐい御神徳を身に受けていかれた事だと私は思います。だからそういう時なんです。お徳を受ける時は。
 ただお参りをするお取次を頂く、御願いをするおかげを頂いた、はあ有り難う御座いますと言うて御用をする。お供えをする。それで御神徳が受けられると思うたら大間違いです。例えばどの様に突いたり引かれたりされても、どんなに神様から騙された様な時であってもそこに真実その事に対して、お礼の言えれる様な心の状態を、段々本当なものにしておいでられる所にです、悪神邪神と思うておられたその、人が言うその金神様がです、いよいよ向きを変えられる時に、天地金乃神というそれこそ。
 私共がこの神様のおかげを頂かなければ立ち行かん。それこそじがん溢れるばかりの、天地金乃神様を正面に受け止める事がお出来になられたのです。だから私天地金乃神様という神様は、教祖の実意丁寧限りないご信心によって、現れなさった神様というて過言はないと思うのです。今までかつてそういう神様を現しきった者がいなかった。難儀の元が罪であり、難儀の元が因縁であり、その難儀を罪を例えば消していく事の為にはもうそれこそ、沢山ないうならば何十巻という経文を読まなければ。
 それが分からなければそれを実行しなければ、その罪も因縁も解けない程しのもの。とても人間技で出来る事の無い様な、出来る事の出来ない様な事をしなければ、その罪がほどけないと言った様な程度の宗教はあったけれども、本当にいうなら天地金乃神様の正真正銘、いわゆる真から向かわれた、天地金乃神様という神様は、そういうけちな神様じゃない。氏子にどういうお粗末ご無礼があっても、どういう因縁を作っておろうが、罪を作っておろうが氏子が真から相済みませんという。
 詫びれば許してやりたいのが親心というその親心の全てを教祖に向けられた。そこでその唯済みませんというだけではなくて、所謂和賀心を持ってと仰る。生神金光大神天地金乃神一心に願えと言う事は、一心に詫びよと言う事も言えるのです。今月今日で頼めい。おかげは和賀心にあるのだぞと。自分の心の中に和らぎ喜ぶ心を愈々育てて行くその和らぎ喜ぶ心を育てて行く事の中から出て来る所の願いであり。
 お詫びでありお礼であると云う様な生き方になって来れば、どういう例えばめぐりの深いものであっても、因縁が深くても、罪を持っておるものであっても、その和賀心の前にはそれこそ、霜に煮え湯をかける様に消えてなくなるものぞと教えられた。もう今までかつて、今迄の大宗教家が説き得なかった所に触れて行かれた訳。という程しの御神徳に進まれた訳であります。成る程お互いが御神徳を受けられないはずだと、御教えを頂く。あり難いと思う。おかげを頂く。あり難いと思う。
 けれども、そのおかげの世界だけで、これからがお徳の世界ぞ、これからが徳を受ける働きぞと云う所をおろそかにしておる。久留米の石井清さんが、ある時に御届けをされた。丁度何かの会合があって帰る時に、善導寺の久保山さんを乗せて帰られた。善導寺の街中に御座いますから、もう普通にいうなら久留米へ帰る石井さんですから、そこで有り難う御座いましたというて、お礼を言うて帰る、同時ならここで御無礼します、というて帰るので御座いましょうけれども。
 久保山さんお家の前までお送りしましょうとこういう訳なんです。いやそげなこっちゃ気の毒かからち言うたら、これからが私の信心ですからち言うたち。私は清さんがおかげを頂くのはそう云う所だと思うです。大概なものが善導寺の入り口まで送ってあげたんだし、只便乗されただけだから、そこで下ろしそんならさようならでもあり難い、有り難う御座いますは言う訳なんです。またそれでもあり難いのだ。けど久保山さんこれから先は私の為の信心だと言うた。もうあなたの為じゃない。
 私の為ですとこう言うておる。そこから先が神様のご信用を受ける所であり、神様のお徳を受けて行くちいうのはそれから先なんだ。善導寺のあそこの三つ角まで乗せて行くならば、信心の無かもんでもさあ乗んなさらんのち、誰でん乗せるです。そんくらいな事ならば。その当たり前の事ばしとってから、いうならば信心面、信心者の面をしておる様な事ではおかげにならんです。
 唯欲の為に参りよるとじゃろうもん。唯有難いお話が頂けれるけん拝みよるとじゃろうもん。そんなら誰でもする事じゃん。教えを頂いて教えが身に付き血になってです、これから先は信心を本当に頂く者でなからなければ、出来んと云う所が出来て初めてそこが、御神徳になるのです。言うならば本当に御神徳を受けられて、あの世にも持って行かれてあるだろう。この世にでも残しておけれる事実が、色んなお徳を受けられた先生の場合、それを見る事が出来る聞く事が出来る。
 だからそういう先生方はそう云う所を大事にされた。表よりも裏を、目に見えない裏の所を、大事にされた方達ばっかりなんです。それはどこまでも信ずれば成りであります。信ずればこそ、人が知らん所ででも大事にしなければおられんのです。神様が見通し神様が聞き通しそこを信じておるから出来るのです。だから信心すれば誰でもと云う所はそういう信心なのです。そういう信心をすれば、誰でも神徳が受けられる、しかもそれはみてると云う事がない。
 これでお終いと云う事がない、と言う程しのおかげが頂けれる、お道のいわば信心であり、教祖様ご自身が、そういう尊い体験を持って教えて下さるのでありますから、私共はね、そこんところをもちっと大事にしなければ、もちっとじゃない、本気で大事にしなければならないという事になります。例えばなら清さんじゃないけれども、善導寺の方に行かれるなら、なら私もあそこの前ば通るけんあそこまで乗って行きなさい、これならば誰でもする事です。
 それから先の所はそれこそ神様のご信用を受ける。神様の御神徳を受けるという、そこの一歩手前の所で、それから先の事をしだごだにしておる様な信心では、いわゆる今日ここで言う信心ではない。信じる心。そういう信心をすれば皆さんお話を聞いて下さって、成る程そういう信心ならば、矢張りお徳を受けるじゃろう、とやっぱ思いなさるでしょうが。だからそのそれをやっぱ本気で一つ、行の上に現して行かなければ、御神徳は受けられません。私共も信心は長年させて頂いておったけれども。
 成る程、信心らしい信心しよるかと思うと、間では信心の無いもんでんせんごたる事をしてきた。それでもう結局プラスマイナスで皆差し引かれておると言う事になります。神様から色々とお指図を頂く様になって、それこそ教祖様の事じゃないけれども、本当に神様は理不尽な事を言われる場合がありました。けれどもこっちが、教祖様の垢抜けした頂き方じゃないですけれどもです。
 それを矢張り神様の仰せどおりに仕って参りました。その内にです例えば是ほどしに、廻りを作って来た私だから、是からはそういう廻りを作る様な生活だけはしてはいけない、と心に決める様になったです。それではなくても是ほどしに、廻りを積んで来ておる私だから、もう今日からは廻りを積む様な事はせんぞ、という事に腹が決まった所から、私は段々おかげを頂いて来た様に思います。おかげを受けたり廻りを積んだり、是ではいつまで経ってもらちがあかん。
 だからここで本気で、一心発起しなければなりません。本当の信心を頂こうという言わば、姿勢をね示して神様に向かわなければいけない。そしてみてると言う事のないおかげの世界にすみたい。本当にそれを私共の念願。それはそのまま、天地金乃神様の念願でもおありになるのですから、神様と私共が愈々、合楽世界に住む事の出来れるおかげ。そこから合楽示現活動は本格的なものになって来ると思います。
   どうぞ。